平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

譜本「平曲吟譜新集」のこと

平家琵琶の譜本(晴眼者用)には大きく2種類ある。ひとつが1737年の「平家吟譜」、ひとつが1776年の「平家正節(まぶし)」である。「平家吟譜」は平家物語と同じ順番に編纂されているが、現在の規範譜「平家正節」は、教習順に編纂されている。 「平家吟譜…

平家琵琶の研究書を翻刻出版します

館山漸之進が明治43年に発行した『平家音楽史』の基礎資料『平曲古今譚』『平曲統伝記』『平曲温故集』の三部作を活字翻刻し、解題と要約などを加えて出版します。 タイトル:平家琵琶にみる伝承と文化 ―『平曲古今譚』『平曲統伝記』『平曲温故集』― 著者:…

頼山陽

頼山陽は幕末の京都において平曲の伝承に関わっています。 『平家音楽史』p.565前後に、京都において平曲を学んだ者の名前が列記されています。これは『平安人物志(文政13年版)』「平語」の項目を引用したものであり、国際日本文化研究センターのデータベ…

深川照阿

『平家音楽史』p.475〜に深川照阿について紹介されています。 第五 深川照阿 一 深川氏麻岡宗匠の直門人と自称す 明治41年1月発行「歌舞音曲雑誌」に載せたる深川氏の談(以下、長いので要約のみ) 深川照阿は天保4年に幕府寺社奉行支配下にして御連歌の家に…

麻岡検校長歳一

福地桜痴の話が宙ぶらりんのままですが、麻岡検校について紹介しておきます。 『平家音楽史』第三十九章 山本検校門人 第一 江戸平家正節流の祖 兼業麻岡長歳一(江戸第六世の宗匠) 一 検校次男麻岡眞三郎直話の一 清水を改めて清川と為り清川を改めて麻岡…

はてなキーワードに

平家琵琶という項目ができていました。 平曲。 平家物語。 琵琶法師。 本来、「平家」という。平家物語を琵琶の伴奏で語る音楽。 現在平家を演奏できるのは、今井勉氏のみ。 これまたエラく不十分な情報です。 いろいろな人が訂正・加筆できるのが魅力ですが…

福地桜痴について(その1)

江戸末期、津軽順承公や楠美太素の師匠であった麻岡検校には「春之一」という優秀な弟子がありました。 春之一は明治維新後、当道制度の崩壊と共に当道座に所属する盲人であることを示す「一」名を名乗るのをやめ、原口喜運と名乗ります。原口喜運は有志の招…

「腰越」解剖2

下音 益無き命は存ずと云へども、京都の経回難治の間、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖として、土民百姓などに服仕せらる。 上音 然るに、交契忽ちに純熟して、平家の一族追討のために上洛せしむる手合せに、まず木曽義仲を誅戮の後、平家を攻め傾けんがた…

「腰越」解剖2

★現在、草稿の状態です。★

「腰越」解剖1

平家琵琶では、腰越状の部分は「読物」という特殊な節まわしで語ります。「読物」は「伝授物」の一つで、「平物(ひらもの)」161句の口伝を終えていないと教習が許されません。また音の構造理論も複雑ですので、技術面では大小秘事より難易度が高いといえま…

腰越

★現在、草稿の状態です。★

那須与一 徹底解剖3

口説(くどき:説明を淡々と語る) 味方の兵者共、与一が後を遥に見送って、一定この若者仕る可存じ候と申しければ、判官も頼し気にぞ見たまひける。矢比少し遠かりければ、海の面一反斗打入たりければ、未だ扇の間、七反斗も有るらんとぞ見へし。 与一の後…

引用の際のお約束

夏休みのレポートなどに引用する場合は、このブログのタイトル「平家琵琶の豆知識」とURLを忘れずに書きましょう。

那須与一 徹底解剖2

拾(ひろい:合戦の場面を勇ましく語る) 与一、其頃は未だ二十斗の男也。褐(かち)に赤地の錦を以て、壬(おおくび)衽(はたそで)彩へたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、足白の太刀を帯き、二十四指たる截生(きりう)の矢負い、薄截生に鷹の羽割合せて矧だり…

那須与一 徹底解剖1

平家琵琶における「那須与一」の詞章を紹介しつつ、私の視点から解説をしていきます。 漢字や送り仮名は、私がいつも使っている譜本に準じました。 読みかたについては、特別なものについては( )に示しましたが、それ以外は拙著をご覧下さい。 口説(くど…

平家物語「紅葉」の名言

平家物語巻之六に、高倉天皇の仁徳を称える「紅葉」という句があります。 この中で、まだ若かった高倉天皇は、女主人の装束を奪われた女童(めのわらわ)の存在を知り、仁徳が至らないから犯罪があるのだと嘆かれ、后(徳子)の装束を女童に賜わせて当直の武士…

名言集

平家物語の中から、これは!と思う詞(ことば)を紹介します。

壇ノ浦の日、「内侍所都入」、「能登殿最後」

本日は旧暦3月24日。壇ノ浦の合戦があった日です。 1185年の今日、本州と九州の間に位置する壇ノ浦において、源平両軍が戦います。海上の戦に長けているはずの平家軍ですが、(おそらく)潮流の変化により不利となり、ある者は入水し、ある者は生捕となるの…

「那須与一」の日

本日(2005年3月27日)は、旧暦では2月18日。 1185年の2月18日(太陽暦に直すと3月21日とのこと)には、源平両軍が四国の屋島で合戦をしていました。 当時は夕方になると休戦するのが習慣でした。燃料の節約だったのでしょう。 源平両軍が、しまい支度をして…

もうすぐ一の谷の戦

今年の本日(3月15日)は、旧暦では2月6日。 1181年閏2月4日、清盛が亡くなっています。 1184年2月4日、平家は法要を行います。この日は吉日なので源氏軍は都を出発します。夕刻、範頼率いる大手軍は昆陽野に陣をとります。義経率いる搦手軍は三草山の東に到…

「木曾最期」の日

本日は旧暦の一月二十一日。「宇治川の合戦」の翌日ですから、木曾義仲の命日となります。 比は正月二十一日、入相(いりあい)斗(ばかん)の事なれば、薄氷(うすごおり)は張ったりけり。深田(ふかだ)有るとも知らずして、馬を颯(ざっ)と打ち入れたれ…

「宇治川」の日

本日は、「宇治川の合戦」が行われた日です。 現代我々が使っている暦の2月28日ではありません。陰暦で、今日が一月二十日にあたるのです。数日前、東京でも雪が降りました。雪かきなどで日陰に雪を寄せたところでしたら、まだ解けきらずに残っているのでは…

武田信玄が聴いた平家琵琶

上杉謙信のみならず、武田信玄も平家琵琶を聴いています。 『平家音楽史』には、「音楽利害」にあった「続古事談」からの引用なるものが記されています。 武田信玄、一夜諸将を会す、馬場信房、内藤昌豊、高坂昌信、山形昌景、土屋昌次、等皆其中に在り。偶…

琵琶を描いた絵など

オークションサイトを見ておりますと、琵琶をモチーフにしたグッズが出品されていることがあります。でも、致し方ないことなのでしょうけれど、細部に至るまで精巧に琵琶を模してあるものは少ないです。 これは、そいういったグッズに限ったことではなくて、…

館山漸之進と私のこと

質問をいただきましたので、ここに記しておきます。 弘前藩士だった私の先祖の楠美則徳(くすみのりよし)と、その孫である楠美太素(たいそ)は、参勤交代を利用して、江戸において平家琵琶を修得しました。 楠美太素の三男である館山漸之進(ぜんのしん)…

上杉謙信が聴いた平家琵琶

平家琵琶は、どのようなところで演奏されてきたのでしょうか。 小泉八雲が創作した「耳なし芳一」の話を思い出してみてください。芳一は、夜な夜な“貴族の屋敷”に出かけて演奏していますよね。これなんです。(小泉八雲は、盲人にまつわる複数の怪談を集めて…

平家指南抄

『平家音楽史』には、「平家指南抄」なる文献の引用があります。誰が何時ごろ書いたものなのかは述べられていませんが、いわゆる口伝をまとめたものと思われます。 引用されているのは、望ましくない語り方・環境を述べた11項目です。 常に嗜むべき事 一 目…

琵琶の種類

詳しくは平家詞曲研究室に記してあります。ここではごく簡単に。 琵琶が日本に伝来したのは奈良時代に遡ると考えられています。 その後、いくつかの種類の琵琶が日本において生まれ、現代まで伝えられています。流派が違うのではなく、成立背景や楽器そのも…

伝授謝礼のこと(安政年間)

『平家音楽史』には、安政年間に弘前藩士・楠美太素(くすみたいそ)が参勤交代で江戸に上った折、麻岡検校より平家琵琶を学んだときの記録が出ています。 太素は則徳の嫡孫です。弘前において、則徳から平家琵琶を習った工藤行敏(繁治)から手ほどきを受け…

伝授謝礼のこと

『平家音楽史』には、寛政年間に弘前藩士・楠美則徳(くすみのりよし)が参勤交代で江戸に上った折、三島自寛について平家琵琶を学んだときの記録が出ています。 字読 此は盲人ばかりなり、常の人は直に本にて読み習う也 盲人は節をつける前に、詞(ことば)…