平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

福地桜痴について(その1)

江戸末期、津軽順承公や楠美太素の師匠であった麻岡検校には「春之一」という優秀な弟子がありました。
春之一は明治維新後、当道制度の崩壊と共に当道座に所属する盲人であることを示す「一」名を名乗るのをやめ、原口喜運と名乗ります。

原口喜運は有志の招きに応じて、明治十三年六月(五月?)より、日比谷大神宮教会所にて行われる平曲会で、毎月演奏をしました。
かつて同じように当道座に所属していた盲人二人も出演しましたが、喜運の語りは法格厳粛、曲節壮快で、新聞記事にもなり、平曲会の存在は次第に有名になりました。

そこに弟子入りしたのが福地源一郎(桜痴)です。

(明治)十四年五月、福地源一郎其の門に入り之れを学び、
原口其の継続者を得たるを喜び、熱心に教授するも、惜哉音楽に長ぜず、
福地切に灌頂の相伝を請ふも、之れを允さずと云う

単刀直入に書きましょう。
平曲の才能がないくせに特別な伝授曲を教えろと主張し続けたが、喜運は認めなかった
ということです。

さて、明治十七年五月十日の朝野新聞に、とんでもない記事が載ります。

平家物語の内、小松内府が浄海を諫言の段は、各本異同もあり、
琵琶の段落も是まで不十分なりしを、今度福地桜痴先生が校正して、
原口喜運に授けられしにより、前後能く整理したりと云う。

驚いた楠美晩翠は、明治十七年六月十三日(1884年ですから123年前の今日)、福地桜痴と原口喜運の両名に書状を送ります。長いので要約しますと

一、平家正節では「小教訓」「小松教訓」の二句が存在しているのに、「小松内府が浄海を諫言の段」は、何を指しているのかが不明瞭である。
二、平家物語の諸本には異同があるが、平家正節そのものが異同を校正した譜本であるから、今さら校正する余地はない。何を原本としたのか、文章を校正したのか、曲節を構成したのか、不明瞭である。
三、原口氏は麻岡検校から奥秘を極めたと訊いていたが、本当に奥秘を極めた人が「平物」の句の異同や曲節を、福地氏の校正を得て初めて整理したなどという理由が不明瞭である。
四、嘉永から元治に至るまで、本所一ツ目弁天での当道座による年中行事に参加した盲人は数多くいるが、検校や勾当に原口の名は無いことが不明瞭である。

一、二、で触れられている「平家正節(へいけまぶし)」は荻野検校が整譜した平家詞曲の規範譜です。これを習ったとおり語るのが平家詞曲です。勝手に文章を変えたり、勝手に節まわしを変えたりした時点で、平家詞曲ではなくなります。
三、正統な平家詞曲を修得(私は「習得」とは区別して考えています)した人間=本当に奥秘を極めた人間なら、平家詞曲を勝手に改変することなどできようはずがありません。正統な平家詞曲ではないことを証明することになるのですから。
四、盲人の身分階級と平家詞曲の習得度は、ある程度比例します。安政年間に没した麻岡検校から奥秘を「修得」したのであれば、金銭的な事情で検校に至らなかったとしても、安政年間中に勾当に昇進していそうなもの。しかし喜運は「春之一」と名乗ったのみ。つまり大小秘事の伝を受けているとは考えられないわけです。

これに対して福地桜痴は、のらりくらりと返事をします。これはまた後日紹介します。