平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

深川照阿

『平家音楽史』p.475〜に深川照阿について紹介されています。

第五 深川照阿
一 深川氏麻岡宗匠の直門人と自称す
  明治41年1月発行「歌舞音曲雑誌」に載せたる深川氏の談(以下、長いので要約のみ)
深川照阿は天保4年に幕府寺社奉行支配下にして御連歌の家に生まれ、14歳の折、偶然一ツ目弁天で「奉納平家」の貼札を見つけて傍聴した。
奥殿に弁財天の尊像を安置し、須弥檀に供物をそなえ、その前面の左右に琵琶を立ててあった。
上座に惣録検校が座し、宗匠麻岡検校、副宗匠福住検校が続き、勾当数名、都名(いちな)の盲人が、それぞれの身分の官服で席を占める。
下座に熨斗目麻上下(裃)の役員が控える。
役員が神前の琵琶を宗匠の前に置き、宗匠調弦。役員がその琵琶を弾奏者に授け、奏者は神前に座して恭しく掻き鳴らす。
(奉納会の後)照阿が若いので、役人がいぶかしく思ったのか感想をきいてくるので、「私は和歌の家に生まれた。平曲の文章がひとつひとつ脳裏に刻まれ、曲節が一層の妙を添えて興味深い」と答えると、麻岡検校から弟子入りしないかと懇ろに勧められ、門下生となった。
最初は青山(弥惣右衛門)の代稽古を受けたが、進歩が著しく師の検校(麻岡検校)も舌を巻き、秘曲まで皆伝し、二なき者と寵愛してますます技量を磨かせてくれた。
現在は、明治維新によって盲人の官職が無くなり、あらゆる音楽が衰微してしまっている。

麻岡検校門人の項目に含まれているものの、引用記事に対する題が「直門人と自称す」です。実は館山漸之進は、照阿の談話を冷ややかに評価をしているのです。

二 楠美太素の旧話
先人曾て話することあり青山弥惣衛門の門人に深川照阿と云ふ青年あり天性怜悧にして音声美麗正当に稽古すれば好い平家になると。

照阿は青山の弟子→麻岡検校の弟子とは聞いていない。
きちんと稽古すれば好い平家になる→声は良いが下手だった。というのです。

三 楠美太素の遺書深川氏と会合の分抄録
安政3年1月に青山宅で行われた語初会、安政4年6月に深川宅で行われた平曲会、安政6年6月に青山宅で行われた平曲会の句組。省略)

遺書とは生前に書いてあった記録(または手紙)の意味です。ここには青山弥惣衛門、深川照阿、楠美太素、それから高木という人物が集って演奏会をした記録があります。
照阿が語ったのは「平家正節」一之上〜二之下(全200句中、教習順で24句めまで)の句と、麻岡検校と二人で語った「康頼祝詞」のみ。「康頼祝詞」は本来178番目に習う「伝授物」ですが、50句を習得時に褒美として稽古が許されています。秘曲皆伝なら「伝授物」も修得済みで一人で語るはずなのに、麻岡検校と一緒に語っているので、漸之進は「照阿はせいぜい50句済」と推測しています。

四 漸之進深川に遇す(以下、長いので要約のみ)
漸之進は明治32年に上京した折、初めて深川に遭い、平家を聞く。音声優美で巧みなるも、正しく素語を学びて位語を熟せし平家にあらず。且つ琵琶を知らず、秘曲を知らず。
東京に平曲の大家がなく、照阿には後進を育ててほしいと思い、灌頂と八坂流訪月を授けるが、照阿は年老いて覚えられなかった。

八 深川氏に大秘事の秘書を貸す
東京の平曲家に、大秘事の曲本を所持する者なし。明治三十六年、漸之進第二の兄、佐野楽翁に書を寄せて、翁に貸さしめ、之れを謄写せしむ。

「位語(くらいがたり)」も琵琶も秘曲もできないので、麻岡が舌を巻いた技量とは思えないし、秘曲皆伝も疑わしいと思っています。
ただ、照阿のほかに平曲を伝える人材が無いので、譜本を確実に遺すために譜本を貸したのです。
灌頂巻と訪月の稽古はしたのに大秘事の稽古をしていないことを見逃してはいけません。平曲の相伝者は、人に教えるとき、その人物の器量を見て教えることになっています。大秘事の譜本を所持する器と、大秘事の稽古が許される器には、大きな違いがあります。

五 深川翁漸之進に和歌二首を示す
明治32年12月26日漸之進深川氏に八坂訪見伝授の時読みし詠歌
   館山大人のみもとへもののついでに
 としを経てかきみだしたるよつの緒を もとのしらべにひきかへさなん
其の後ち復た一首を贈る
 君ならで誰れかはつがんつぎ琵琶の いとほそりゆく音のしらべを

照阿が反省したのか、反省したフリをしたのかは不明ですが、四つの緒(琵琶)の伝承の乱れや衰退を憂いているのは確かだと思います。

六 村田直景平曲談(長いので要約のみ)
徒然草』では、慈鎮和尚は「五徳冠者」信濃前司行長を憐れんで養い、平家物語が成立したとある。
深川照阿翁が10年前から健忘症に罹られたのを憐れんで、照阿の慈善深きを知る者は「今慈鎮」と呼び、照阿が気品高く余念無く琵琶をかきならすのを知る者は「今行長」と呼んでいる。

漸之進は照阿を疑わしく思いつつ、加齢による可能性を示して、後世の人々に結論を委ねているのかもしれません。
歴史は繰り返す、と申します。照阿のような人物が一人ではないことを、漸之進は伝えたかったのかもしれません。