平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

討ち入りと平家琵琶

江戸時代には、茶人たちも平家琵琶を嗜みました。
たとえば、千宗旦の弟子である茶人の山田宗へん(そうへん:「へん」は“にんべん”+扁)は平家琵琶への造詣が深く、自ら五十数面の琵琶を製作したといいます。
また、茶会のとき、茶室の外に待つ来客を迎えるために、銅鑼ではなく琵琶の音を合図に用いた茶人がいたともいいます。

果たして史実と一致するかどうかは疑問ですが、面白いエピソードがあります。
『平家音楽史』にで紹介されている、明治41年2月11日「日本新聞」の記事です。(長いので要約します。)

手引きの琵琶と花籠

元禄時代、茶人の山田宗へんは京都を去り江戸に来た。
江戸在勤中の諸大名が競ってその門に学んだ。
吉良上野介も宗へんを師として茶道を学んでいた。
大石内蔵助はそれを知り、大高源吾を「伊勢の呉服商」として宗へんに入門させた。

元禄15年12月13日、宗へんは源吾に「明日、吉良邸で茶会がある」と口を滑らせる。
源吾は「呉服の仕入れのため近く帰国します。吉良邸の茶会は興味があり土産話にしたいので、臨席は無理でも御供して垣間見たいものです」などと言って宗へんから茶会の模様をあらかじめ聞き取る。

12月14日、本所の吉良邸で、いよいよ茶会が催される。
道具の取り合わせには数寄を凝らし、花入れには、桂川の鮎釣り人が腰に下げる籠を「桂川籠」として使っていた。

さて用意が整うと、宗へんは自ら製作した「白浪」という号の平家琵琶を弾いて、外で待つ客を招き入れる。
この時、邸外に潜伏した義士の一人が、その音を頼りに「時迫れり」と合図する。
吉良上野介は、茶会の後、宗へんに一泊するように勧めるが、宗へんは帰宅する。

いよいよ討ち入りが行われ、吉良の首が討ち取られる。
寺坂吉右衛門が吉良の首を持って一足先に泉岳寺へ向かう。
そのあとに義士が一斉に移動するとき、あたかも吉良の首を掲げているように見せるため、花入れに使った桂川籠を風呂敷で包み、それを掲げて泉岳寺へ向かう。