平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

麻岡検校長歳一

福地桜痴の話が宙ぶらりんのままですが、麻岡検校について紹介しておきます。

『平家音楽史』第三十九章 山本検校門人
第一 江戸平家正節流の祖 兼業麻岡長歳一(江戸第六世の宗匠
一 検校次男麻岡眞三郎直話の一
  清水を改めて清川と為り清川を改めて麻岡と為る
(原文は省略)

明治三十八年八月、東京湯島霊雲寺にて荻野検校百年・麻岡検校五十年祭追善会を営んだ漸之進は、来会した麻岡検校の長女と次男眞三郎と面会しています。
明治三十九年十月十五日、館山漸之進は渋谷に住む眞三郎氏を訪ねます。「麻岡検校は眞三郎が13歳の時に亡くなり、兄の城義信も自分も平曲を学ぶことは無かったが、姉は幼年より父に侍して平家を学び、今も記憶している」とのこと。
「もとは清水姓だったのを、勾当出願の時に既に清水勾当があったので重複を避けるために清川を名乗り、検校出願のときに既に清川検校があったので、薩摩公(島津齊宣)より麻布魚らん坂下に居住していたことから麻岡と名乗るように言われ、麻岡検校になった」とのこと。
勾当や検校は、姓の重複を避ける慣わしとなっていることが確認できます。ただ、いろいろな文献を見ておりますと、何らかの条件を満たすときには重複することもあるようです。

二 検校次男麻岡眞三郎直話の二
  検校再び京都に行き、平家の皆伝を受く
(原文は省略)

麻岡検校は十三歳の時に疱瘡で失明、豊川検校に平家を学びますが、これは「平家吟譜」という規範譜でした。尾張と京では荻野検校編纂の「平家正節」になっていたため、麻岡検校は京に上り、山本検校より改正の平家(平家正節)を学びます。一度江戸に帰り、薩摩公の思し召しにより費用を賜り、再び京都に上りましたが、山本検校死去後であったため、中村検校より皆伝を受け、これを江戸に広めました。

三 麻岡検校長女の直話
  長女平家読物腰越灌頂小原御幸を諳熟す
(前略)
老女漸之進に先づ語れと云ふ、乃ち小原御幸の口説より中音に至るの一端を語る。老女曰く甚だ悠長なりと、老女之れを諳熟して語る。而して又た読物の腰越を語る、亦た諳熟たり。声しわがれて調簡なるも、音譜正確にして曲調厳正なり。六十八の老体にして尚此の如し。漸之進驚嘆措かざるなり。
之れを学びたる年数を問ふ。老女曰く、父は毎宵復習し、一月にして全部を終はり、余に本を控へさせ、誤謬遺忘の所は本に照して記憶を新にし、余数年之れに当り、遂に全部を諳熟するに至ると。弥々驚き、愈々嘆ずるなり。
(後略)

漸之進の申し出により、別宅に住む麻岡長女(68歳)が招かれます。長女は幼い頃より平家を学び蘊奥を究め、鏡嶋検校に嫁ぎ、鏡嶋検校を平家の宗匠にせしめたということを、漸之進は父太素や兄楽翁から聞いていました。
漸之進が一句所望すると、長女より先に語るように言われ、小原御幸の冒頭を語ります。長女は「甚だ悠長なり」と褒め、自らも小原御幸と腰越を諳んじて語ります。
長女は父(麻岡検校)が毎晩復習するとき、譜本を確認しながら同席し、覚えてしまったというのです。ひと月で200句を語ってしまう麻岡検校は、相当な気力と精力があり、しかも無駄な力を入れずに緩急自在に語ることが出来たものと思われます。最初に覚えた平家吟譜の癖が出ないよう、長女に平家正節の譜本を確認させていたことから、伝承に対して誠実であったこともわかります。長女もまた優秀だったのです。
その後、薩摩公が麻岡検校に下賜した「五月雨」の琵琶が津軽順承公に形見として渡り、さらに楠美家の所蔵となったことを伝え、先人たちに思いを馳せたとのことです。

麻岡検校は島津齊宣公や津軽順承公ら、盲人ではない弟子をたくさん育て、免許皆伝を授けています。長女には自らの目の代わりとして同席させ、秘事を諳んじるに至らしめています。
現代の今井検校は盲人男性として貴重な伝承者であり、国をあげて保護すべき対象と考えますが、国風会という団体における「検校」であり、当道制度における検校とは(平家琵琶の伝承においては)意味合いが異なります。
盲人ではない伝承者や女性の伝承者の存在を認めようとしない研究者もいますが、歴史的背景にもっと目を向けてほしいと思っています。