平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

上杉謙信が聴いた平家琵琶

平家琵琶は、どのようなところで演奏されてきたのでしょうか。
小泉八雲が創作した「耳なし芳一」の話を思い出してみてください。芳一は、夜な夜な“貴族の屋敷”に出かけて演奏していますよね。これなんです。(小泉八雲は、盲人にまつわる複数の怪談を集めていますので、このお話の中には平家琵琶とは考えにくい表現もあるのですが、これはまた別の日にお話しましょう。)
『平家音楽史』には、これに似た例として、武人が平家琵琶を聴いた例が紹介されています。

上杉輝虎、或る夜、石坂検校に平家を語らせて聞かれけるに、鵺の段を聞て頻りに落涙せられけり。傍らの者共、怪み思ひければ、輝虎曰く、我国の武徳も衰へたりと覚ゆるなり。昔 鳥羽院の御時、禁中に妖怪ありしに、八幡太郎鳴弦して、鎮守府将軍源義家と名乗りければ、妖怪忽ち消ぬと云へり、其後頼政鵺を射たれ共、猶死せずして、井野隼太殺して止むと云。義家鳴弦せしは、天仁元年の事なり。鵺の出しは、近衛院仁平三年なれば、僅に四十六年なるに、武徳既に衰へたること斯の如し。今頼政に後るること四百五十年、我れ又た頼政に劣ること遠かるべければ、覚えず涙の流るるよとぞ語りける。

石坂検校については詳細は不明ですが、杉山検校が江戸幕府に提出した書類によれば、当時は総検校に多くの門人があったといいますので、その全盛期の一人なのでしょう。
石坂検校が語る「鵺(ぬえ)」を聴いて、輝虎(のちの謙信)は涙を流します。
傍にいる人々が理由を問うと、輝虎はこう答えます。
「鳥羽の院の頃、御所に妖怪が出たとき、源義家は弓の弦を鳴らして大声で名乗っただけで、妖怪は消えうせた。その46年後に鵺が現れたとき、源頼政は鵺を射たけれども、鵺を死に至らしめたのは、頼政に仕えるイノ・ハヤタであった。大声で退治できたものは、46年後には二人がかりでなければ退治できなくなったのである。
今はそれから450年経っている。もし今、鵺が出て私が退治することになったら、大声でも二人がかりでも退治することは叶わないだろう。もはや我が国の武徳は、すっかり衰退してしまったのだと思うと、涙が流れるのだ」
その話題から400年余り経つ現在。日本の武徳は・・・・・・?