平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

武田信玄が聴いた平家琵琶

上杉謙信のみならず、武田信玄平家琵琶を聴いています。
『平家音楽史』には、「音楽利害」にあった「続古事談」からの引用なるものが記されています。

武田信玄、一夜諸将を会す、馬場信房内藤昌豊高坂昌信、山形昌景、土屋昌次、等皆其中に在り。偶ま春雨を聴く。勾当をして平語を語らしむ、勾当其望む所を問ふ。信玄曰く、意味深長にして、感涙袖を沾すべきものを欲すと。勾当窃に名将の意に違はざらんことを希ひ、暫く沈思す。既にして近衛帝の御宇に、源三位頼政が鵺を射たる一段を語る。
曲未だ半ばならずして信玄涙涕頻なり。左右信玄が頼政の勇挙を称すべきに、其却て涙涕頻なるを解せず。然れども当時の風俗、尚此の如きことを質すを以て耻ちと為し、相互に之を黙過す。後土屋昌次、若壮の鋭気に乗じて、之を高坂昌信に問ふ。昌信も亦た之を解せず。既にして、昌次信玄に見え、語次此に及ぶ。
信玄之を聞き、慨然として嘆て曰く、嗚呼、諸士の意を注ぐ所甚だ粗なりと謂ふべし。抑も上古は人心質直にして皇意も尊く、武名も高し。延喜帝の御宇に於ては、唯だ宣旨とのみ言へば、池中の白鷺も、自ら翅を垂れて抱かれ、平城帝の御宇に至ては、田村将軍、勅を奉じて、鈴鹿山の鬼神を討つに、剣を以てし、頼政に至ては、威風漸く衰へ、鵺を撃つに弓を以てす。而るも尚其名は末代に伝はれり。苟も信玄、弓箭を取て譲る所あるに非るべしと雖も、生を末世に享け、武威漸衰の世運に、遭遇するを以て名を後世に伝ふる所、更に頼政に下らんことを懼る。思ひ一たび茲に至れば、乃ち感涙袖を沾すを知らずと。
昌次之を聞き、始て深く歎服す。蓋し信玄が勾当をして平家を語らしめしは、其の理を聴て其事を聴かず、昔を以て今を鑑み、他人を見て、我身に反思する者にして、古今に少なる所なり。勾当も偶ま座を名将の前に得、一朝技を以て、之を感動せしめたるは、巧思にして亦た能く理を弁へたり。是れ即ち理を弁へて語り、理を弁へて聴く者と謂ふべし。
夫れ謡曲平家の如きは、音曲和に流れざるを以て、之を聴くも大害なし。只だ人心を染むるの恐るべきものは、浄瑠璃、小唄なり。而も浄瑠璃、小唄、必ずしも其理なきに非ざるべしと雖も、耳に之を聴くのみにして、心に之を興とするは道理を考へず、徒に音声の精神を蕩すを喜ぶのみなり。故に異朝に於いても、鄭衛の曲は、最も之を警めたり。苟も士君子たる者の聞くべき所にあらず、礼にあらずんば聞くことと莫れとは、即ち此の謂なり。

武田信玄は、ある夜、諸将の前で勾当(こうとう:盲人の位。検校の次にあたる。)を招き、平家を語らせます。勾当は信玄の希望を考え、「鵺」を語ります。
「鵺」には、頼政が2度までも鵺退治をした話が出てきますが、ひとつめの鵺退治が終わる頃に信玄は涙を流します。当時の風習もあり、なぜ信玄が涙を流したのか疑問に思いつつも、その場で問うものはありませんでした。
後日信玄は土屋昌次の問いに答えます。「延喜帝の宣旨は、それだけで白鷺をおとなしくさせた。頼政は弓を使って鵺を退治したが、末代まで名を残した。武威漸衰の現在、弓矢で信玄の右に出るものはなくても、頼政には及ぶことはないのだ。」
信玄は「鵺」の内容ではなく、その意味するところを勾当に語らせ、また勾当もそれをわきまえて語ったのです。
浄瑠璃や小唄と比べ、謡曲平家琵琶は、メロディーが豊かではありませんが、そのぶん、意味するところを聴くのに向いていると言えましょう。
ということで、再び「鵺」を聞いた例の紹介でした。
「鵺」はほとんどの曲節を網羅しています。このため、聴く人それぞれの解釈の幅が広がるのでしょう。でも、それには語り手の解釈を、適切かつ最小限に抑える必要があります。
科学技術が進歩することはあっても、先人の器量や技量を越えることは、謙信や信玄ですら難しいのです。私は「鵺」を語るのが大好きですが、この勾当には遠く及ばないということですね……。