平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

那須与一 徹底解剖1

平家琵琶における「那須与一」の詞章を紹介しつつ、私の視点から解説をしていきます。
漢字や送り仮名は、私がいつも使っている譜本に準じました。
読みかたについては、特別なものについては( )に示しましたが、それ以外は拙著をご覧下さい。

口説(くどき:説明を、淡々と語る)
去程に、阿波讃岐に平家を背いて源氏を待ちける兵者共、あそこの峰、爰の洞より十四五騎二十騎打連れ打連れ走来る程に、判官程無く三百余騎にぞ成りたまひぬ。今日は日暮れぬ、勝負を決すべからずとて、源平互いに引退く処に、爰に沖の方より尋常に飾ったる小舟を一艘、汀へ向いてぞ漕がせける。渚七八反にも成りしかば、舟を横様に成す。あれはいかにと見る処に、舟の中より年の齢、十八九斗成る女房の柳の五衣に紅の袴着たりけるが、皆紅の扇の日出ひたるを、舟の背がいに挟み立て、陸へ向いてぞ招きける。

義経たちが勝浦(徳島)から屋島(香川)へ向かう途中で、次の軍(いくさ)の時には源氏に味方しようと思っている兵たちが加わり、300騎を越える軍勢になりました。当時は明かりが貴重でしたので、夕方から夜にかけては、原則として軍はしません。屋島の沖にいる平家軍も、屋島の陸にいる源氏軍も、互いに片づけをはじめます。沖の平家軍から、きれいに飾った船が、源氏軍のほうに近づいてきます。船には18歳くらいの女性が、「柳がさね」という色合いの十二単を着て、赤い扇を掲げ、何か合図をしています。
ここでは、淡々と語る中で、源平両軍の位置関係や源氏軍の数、小舟の様子など、必要な条件を細かく紹介しています。

素声(しらこえ:会話を、節をつけずに語る)
判官、後藤兵衛実基を召して、あれはいかにと宣へば、射よとにこそ候めれ、但し大将軍矢面に進んで傾城を御覧ぜられん処を、手垂に覘ふて射落せとの謀とこそ存じ候へ。去ながらも扇をば射させらる可もや候らんと申しければ、判官、味方に射つ可仁は誰か有ると宣へば、上手共多ふ候中に、下野の国の住人那須の太郎助高が子に与一宗高とて、小兵にては候へども、手は利て候と申す。

判官義経は、小舟に乗った女性が何を示しているのか、参謀の実基(さねもと)に訊ねます。実基は「射てみよ、という合図でしょうが、大将軍義経殿が傾城(けいせい:女性のこと)を見物するところを狙おうとしているのかもしれません。かといって無視するわけにもいきません」と申し、那須(栃木)出身の宗高という弓の名手を推薦します。
素声(しらこえ)は、独特のイントネーションで朗読するものです。義経と実基の会話の中に、源平同士のかけひきが見えてきます。

口説
判官、証拠はいかにと宣へば、さん候、翔鳥なんどを争ふて、三に二つは必ず射落し候と申しければ、判官、更ば与一呼べとて、召されけり。

与一の実力の程を訊ねる義経に、「飛ぶ鳥を射落とす競技で、三分の二の確立で命中します」と実基は応えます。そこで、与一が呼ばれることとなります。
口説の持つ淡々とした語り方は、実基が与一に淡々と事実を伝える様子を再現するかのようです。

平家物語「紅葉」の名言

平家物語巻之六に、高倉天皇の仁徳を称える「紅葉」という句があります。
この中で、まだ若かった高倉天皇は、女主人の装束を奪われた女童(めのわらわ)の存在を知り、仁徳が至らないから犯罪があるのだと嘆かれ、后(徳子)の装束を女童に賜わせて当直の武士に護衛させています。
高倉天皇が目標としている仁徳のある帝とは、伝説の聖主である尭帝のことです。

尭(ぎょう)の世の民は尭の心の直(すなお)成るを以って心とする故に皆直也。今の世の民は朕が心を以って心とする故にかたましき者朝(ちょう:治世の意味)に在って罪を犯す。是我が恥に非ずやとぞ詔せける。
現代語訳:「尭の国の人々は尭の心がけを見習うので、皆が正直だったという。今の日本の人々は私のの心がけを見習うから犯罪がはびこるのだ。これは私の恥である」と仰った。

平曲ではこの部分を「折声(おりこえ)」という曲節(旋律形式)で語ります。漢詩や故事を読んだり登場人物の心情を表したりするときに用いる曲節です。高倉天皇のお気持ちや、平家物語の作者たちの気持ちが伝わってきます。
上司の行動を部下が真似るというのは、世の常と言うものです。政治家、会社の役員や管理職などの上層部、学校の先生、サークルの主宰者……。いろいろな責任ある立場の方に知っていただきたい詞(ことば)です。

壇ノ浦の日、「内侍所都入」、「能登殿最後」

本日は旧暦3月24日。壇ノ浦の合戦があった日です。
1185年の今日、本州と九州の間に位置する壇ノ浦において、源平両軍が戦います。海上の戦に長けているはずの平家軍ですが、(おそらく)潮流の変化により不利となり、ある者は入水し、ある者は生捕となるのです。
平家の軍勢が持っていた赤旗などは海に散ります。

海上(かいしょう)には赤旗赤印(あかじるし)、切り捨てかなぐり捨てたりければ、竜田川の紅葉葉(もみぢば)を、嵐の吹き散らしたるに異ならず。汀に寄する白波は、薄紅(うすぐれない)にぞなりにける。
「内侍所都入」より

どれほどの数の軍勢が、この戦の犠牲となったのでしょう。
ところで八艘飛びで知られる義経ですが、『平家物語』の中では、あっけなく扱われています。

能登守教経は義経を探しまわるうちに)判官(ほうがん)の舟に乗り当たり、あわやと目を掛けて飛んでかかる。判官叶わじとや思はれけん、長刀(なぎなた)をば弓手(ゆんで=左手)の脇に掻い挟み、御方(みかた)の舟の二丈ばかり除いたりけるに、ゆらりと飛び乗るりたまひぬ。能登殿(=教経)、早業(はやわざ)や劣られたりけん、やがて続いても飛びたまはず。
能登殿最後」より

つまり、二丈(6mくらい?)先の船に逃げ移り、教経がそれ以上追わなかっただけなのです。

「那須与一」の日

本日(2005年3月27日)は、旧暦では2月18日。
1185年の2月18日(太陽暦に直すと3月21日とのこと)には、源平両軍が四国の屋島で合戦をしていました。
当時は夕方になると休戦するのが習慣でした。燃料の節約だったのでしょう。
源平両軍が、しまい支度をしていると、沖の平家軍から小舟が近づき、陸の源氏軍に合図をします。舟の「せがい」に挟んだ扇を射てみよということと思われ、弓の名手である那須与一が選ばれます。しかし……

比は二月十八日、酉の刻斗の事なれば、折節北風烈しくて、磯打つ浪も高かりけり。舟は淘上げ淘すへて漂へば、扇も串に定まらで、ひらめいたり。
沖には平家、船を一面に並べて見物す。陸には源氏、轡ミを揃へて是を見る。

今頃の日没時刻は、香川県ですと18時20分頃だそうです。酉の刻は18時頃のことですから、日没直前といえます。また、陰暦の18日は満月より少し後ですから、月の出は20時頃になるのではないでしょうか。つまり、あたりは薄暗くなりつつあります。
与一がいる場所から舟までの距離については、約20メートルとも言われますし、約80メートルとも言われます。いずれにせよ、弓の名手であれば、たいした距離ではないでしょう。けれども北風が激しいため、舟も扇も定まりません。
さらに、源平両軍の視線を一身に浴びます。
与一は、どれほどの緊張感で、扇の的に臨んだのでしょうね。

もうすぐ一の谷の戦

今年の本日(3月15日)は、旧暦では2月6日。

1181年閏2月4日、清盛が亡くなっています。
1184年2月4日、平家は法要を行います。この日は吉日なので源氏軍は都を出発します。夕刻、範頼率いる大手軍は昆陽野に陣をとります。義経率いる搦手軍は三草山の東に到着し、平家軍に夜討をかけます。
1184年2月5日、源平はともに一の谷をめざして移動します。
1184年2月6日、義経一行は、老馬に道案内をさせて、鵯越まで行きます。その夜、搦手軍の熊谷直実と平山季重は一の谷の先陣争いをし、その結果、平家の陣で誰か(=敦盛)の笛の音を耳にします。
1184年2月7日朝、ついに義経軍は鵯越の坂を落とし、一の谷の戦が始まります。平家軍は盛俊・忠度・敦盛・知章らが命を落とし、重衡が生け捕られます。
岩波文庫本『平家物語』解説を参考にまとめました。)

ちなみに、私がいつも旧暦の参考にしているサイト「こよみのページ」によれば、1184年2月7日は西暦の3月20日にあたるとのこと。春分の頃ですから、昼と夜の長さはほぼ一緒です。お月様は、半月(上弦の月)の少し前なので、日没前に南の空に輝き始め、0時前には西の空に沈みます。
太陽や月の位置を思い浮かべながら、一の谷の合戦のことを考えてみたいですね。

「木曾最期」の日

本日は旧暦の一月二十一日。「宇治川の合戦」の翌日ですから、木曾義仲の命日となります。

比は正月二十一日、入相(いりあい)斗(ばかん)の事なれば、薄氷(うすごおり)は張ったりけり。深田(ふかだ)有るとも知らずして、馬を颯(ざっ)と打ち入れたれば、馬の頭(かしら)も見へざりけり。あおれども、あおれども、打てども打てども働かず。
(出典は昨日と同じ)

今日は、どんな形の月が、何時ごろに昇るか、ご存知ですか? 下弦の月よりも少しだけ丸い月が、夜の11時頃にようやく東の空に見え始めるのです。
入相とは夕暮れですから、まだまだ月は姿をみせてはおりません。薄暗くて視界が悪い寒い夕暮れのこと。合戦で赴いた不案内の土地ですから、氷が張った深田に、義仲を乗せた馬がはまってしまいます。
平家琵琶ではこの場面を中音域でゆったりと語ります。高音域の情景とはまた違い、義仲や馬の、寒くて淋しい気持ちが伝わってくるような気がします。