平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

「宇治川」の日

本日は、「宇治川の合戦」が行われた日です。
現代我々が使っている暦の2月28日ではありません。陰暦で、今日が一月二十日にあたるのです。

数日前、東京でも雪が降りました。雪かきなどで日陰に雪を寄せたところでしたら、まだ解けきらずに残っているのではないでしょうか。
その寒さを思いながら、平家物語の本文を鑑賞してみましょう。

頃は睦月廿日余りの事なれば、比良の高峰、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷打ち解けて、水は折節増さりたり。
白浪夥しう漲り落ち、瀬枕大きに瀧鳴って、逆巻く水も早かりけり。
夜は既に明け行けど、川霧深く立ちこめて、馬の毛も鎧の毛も定かならず。
(いつも使っている平家琵琶の譜本を翻刻し、送り仮名や句読点を適宜加えました。)

宇治川は雪解けの冷たい水でかさを増し、流れも速くなっています。朝が早いので霧も立ち込めています。
けれども宇治橋は橋板をはずされているので、馬で渡らなければなりません。馬も冷たい思いをするでしょう。当時の馬は背が低いですから、馬の背に乗る武将の足も、水につかるでしょう。
平家琵琶では、ここを「三重(さんじゅう)」という曲節(きょくせつ)で語ります。高い音域で、聴く人の脳裏に情景が浮かぶように語ります。節回しが多いので、ゆっくり聞こえるでしょう。
平家琵琶には効果音のようなものはありません。詞(ことば)や声の旋律から、聴く人が思い思いに、寒さ、緊張、馬の息づかい、水流を見つければよいのです。

武田信玄が聴いた平家琵琶

上杉謙信のみならず、武田信玄平家琵琶を聴いています。
『平家音楽史』には、「音楽利害」にあった「続古事談」からの引用なるものが記されています。

武田信玄、一夜諸将を会す、馬場信房内藤昌豊高坂昌信、山形昌景、土屋昌次、等皆其中に在り。偶ま春雨を聴く。勾当をして平語を語らしむ、勾当其望む所を問ふ。信玄曰く、意味深長にして、感涙袖を沾すべきものを欲すと。勾当窃に名将の意に違はざらんことを希ひ、暫く沈思す。既にして近衛帝の御宇に、源三位頼政が鵺を射たる一段を語る。
曲未だ半ばならずして信玄涙涕頻なり。左右信玄が頼政の勇挙を称すべきに、其却て涙涕頻なるを解せず。然れども当時の風俗、尚此の如きことを質すを以て耻ちと為し、相互に之を黙過す。後土屋昌次、若壮の鋭気に乗じて、之を高坂昌信に問ふ。昌信も亦た之を解せず。既にして、昌次信玄に見え、語次此に及ぶ。
信玄之を聞き、慨然として嘆て曰く、嗚呼、諸士の意を注ぐ所甚だ粗なりと謂ふべし。抑も上古は人心質直にして皇意も尊く、武名も高し。延喜帝の御宇に於ては、唯だ宣旨とのみ言へば、池中の白鷺も、自ら翅を垂れて抱かれ、平城帝の御宇に至ては、田村将軍、勅を奉じて、鈴鹿山の鬼神を討つに、剣を以てし、頼政に至ては、威風漸く衰へ、鵺を撃つに弓を以てす。而るも尚其名は末代に伝はれり。苟も信玄、弓箭を取て譲る所あるに非るべしと雖も、生を末世に享け、武威漸衰の世運に、遭遇するを以て名を後世に伝ふる所、更に頼政に下らんことを懼る。思ひ一たび茲に至れば、乃ち感涙袖を沾すを知らずと。
昌次之を聞き、始て深く歎服す。蓋し信玄が勾当をして平家を語らしめしは、其の理を聴て其事を聴かず、昔を以て今を鑑み、他人を見て、我身に反思する者にして、古今に少なる所なり。勾当も偶ま座を名将の前に得、一朝技を以て、之を感動せしめたるは、巧思にして亦た能く理を弁へたり。是れ即ち理を弁へて語り、理を弁へて聴く者と謂ふべし。
夫れ謡曲平家の如きは、音曲和に流れざるを以て、之を聴くも大害なし。只だ人心を染むるの恐るべきものは、浄瑠璃、小唄なり。而も浄瑠璃、小唄、必ずしも其理なきに非ざるべしと雖も、耳に之を聴くのみにして、心に之を興とするは道理を考へず、徒に音声の精神を蕩すを喜ぶのみなり。故に異朝に於いても、鄭衛の曲は、最も之を警めたり。苟も士君子たる者の聞くべき所にあらず、礼にあらずんば聞くことと莫れとは、即ち此の謂なり。

武田信玄は、ある夜、諸将の前で勾当(こうとう:盲人の位。検校の次にあたる。)を招き、平家を語らせます。勾当は信玄の希望を考え、「鵺」を語ります。
「鵺」には、頼政が2度までも鵺退治をした話が出てきますが、ひとつめの鵺退治が終わる頃に信玄は涙を流します。当時の風習もあり、なぜ信玄が涙を流したのか疑問に思いつつも、その場で問うものはありませんでした。
後日信玄は土屋昌次の問いに答えます。「延喜帝の宣旨は、それだけで白鷺をおとなしくさせた。頼政は弓を使って鵺を退治したが、末代まで名を残した。武威漸衰の現在、弓矢で信玄の右に出るものはなくても、頼政には及ぶことはないのだ。」
信玄は「鵺」の内容ではなく、その意味するところを勾当に語らせ、また勾当もそれをわきまえて語ったのです。
浄瑠璃や小唄と比べ、謡曲平家琵琶は、メロディーが豊かではありませんが、そのぶん、意味するところを聴くのに向いていると言えましょう。
ということで、再び「鵺」を聞いた例の紹介でした。
「鵺」はほとんどの曲節を網羅しています。このため、聴く人それぞれの解釈の幅が広がるのでしょう。でも、それには語り手の解釈を、適切かつ最小限に抑える必要があります。
科学技術が進歩することはあっても、先人の器量や技量を越えることは、謙信や信玄ですら難しいのです。私は「鵺」を語るのが大好きですが、この勾当には遠く及ばないということですね……。

琵琶を描いた絵など

オークションサイトを見ておりますと、琵琶をモチーフにしたグッズが出品されていることがあります。でも、致し方ないことなのでしょうけれど、細部に至るまで精巧に琵琶を模してあるものは少ないです。
これは、そいういったグッズに限ったことではなくて、平安時代の絵巻物に描かれた楽琵琶でも、江戸時代の屏風絵に描かれた平家琵琶でも、同じことが言えるのです。
転手(てんじゅ:糸巻き)の状態、転手と鶴首の角度、絃の本数、柱(じ:フレット)の数、半月(はんげつ:共鳴孔)の形や傾き、撥面に描かれる絵の向き、覆手(ふくじゅ:撥面近くにある糸かけ)の形などなど、歴代の絵師たちも相当難儀したようです。おそらく、琵琶そのものの流通量が極めて少なかったのでしょう。
突然ですが、身近な物(家にある電子レンジとか時計とか)を、実物を見ないで描いてみてください。そのあと、見比べてみてください。誰か別な人に見せたとき、それが何であるかは伝わるでしょう。けれども実物そっくりには描けないですよね。
ところが不思議なことに、琵琶くらい珍しい物になると、その絵を見た人は、それが写実的なものであると錯覚してしまうのです。
たとえば、柱(じ)が6つ描かれたように見える琵琶の絵があります。たぶん、承絃という部分が柱に見えるか、絵師が勢い余って6つ描いたかのどちらかなのでしょう。何せ、とても小さな絵なのです。断言はできませんが、そう考えたほうが辻褄が合います。しかしそれを見て「当時は六柱の琵琶があった」と主張する人もいるのです。
ずいぶん前に聞いた話ですが、18世紀のどこかの女王様は、中年になってから肖像画を描かせることになり、顔は○○歳のときの顔で、ドレスは△△歳のときの服が気に入っていたからそれで描いてと注文したそうです。その逸話を知らない人は、肖像画のドレスをその年の流行だと思い、女王様はいつまでも若々しかったと錯覚してしまいます。
難しいですね・・・。

館山漸之進と私のこと

質問をいただきましたので、ここに記しておきます。
弘前藩士だった私の先祖の楠美則徳(くすみのりよし)と、その孫である楠美太素(たいそ)は、参勤交代を利用して、江戸において平家琵琶を修得しました。
楠美太素の三男である館山漸之進(ぜんのしん)は、則徳・太素・太素の長男の楠美晩翠(ばんすい)が残した古記録類をもとに『平家音楽史』を著しました。
漸之進の子が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の指定をうけた館山甲午(こうご)、甲午の子が館山宣昭(のぶあき)です。私の師匠が館山宣昭です。
楠美太素の五男に楠美六五郎(ろくごろう)、六五郎の子が一郎、一郎の娘が元子(私の母)です。
ちなみに楠美晩翠の娘がすぎ、すぎの娘が梅子、梅子は一郎に嫁したので、梅子の娘も元子(私の母)となります。
祖父と祖母が一代ずれるので混乱しますが、要は、みんな親戚ということです。

  • 太素
    • 長男晩翠 ― すぎ ― 梅子 ― 元子(私の母)
    • 三男漸之進― 甲午 ― 宣昭(私の師匠)
    • 五男六五郎― 一郎 ― 元子(私の母)

上杉謙信が聴いた平家琵琶

平家琵琶は、どのようなところで演奏されてきたのでしょうか。
小泉八雲が創作した「耳なし芳一」の話を思い出してみてください。芳一は、夜な夜な“貴族の屋敷”に出かけて演奏していますよね。これなんです。(小泉八雲は、盲人にまつわる複数の怪談を集めていますので、このお話の中には平家琵琶とは考えにくい表現もあるのですが、これはまた別の日にお話しましょう。)
『平家音楽史』には、これに似た例として、武人が平家琵琶を聴いた例が紹介されています。

上杉輝虎、或る夜、石坂検校に平家を語らせて聞かれけるに、鵺の段を聞て頻りに落涙せられけり。傍らの者共、怪み思ひければ、輝虎曰く、我国の武徳も衰へたりと覚ゆるなり。昔 鳥羽院の御時、禁中に妖怪ありしに、八幡太郎鳴弦して、鎮守府将軍源義家と名乗りければ、妖怪忽ち消ぬと云へり、其後頼政鵺を射たれ共、猶死せずして、井野隼太殺して止むと云。義家鳴弦せしは、天仁元年の事なり。鵺の出しは、近衛院仁平三年なれば、僅に四十六年なるに、武徳既に衰へたること斯の如し。今頼政に後るること四百五十年、我れ又た頼政に劣ること遠かるべければ、覚えず涙の流るるよとぞ語りける。

石坂検校については詳細は不明ですが、杉山検校が江戸幕府に提出した書類によれば、当時は総検校に多くの門人があったといいますので、その全盛期の一人なのでしょう。
石坂検校が語る「鵺(ぬえ)」を聴いて、輝虎(のちの謙信)は涙を流します。
傍にいる人々が理由を問うと、輝虎はこう答えます。
「鳥羽の院の頃、御所に妖怪が出たとき、源義家は弓の弦を鳴らして大声で名乗っただけで、妖怪は消えうせた。その46年後に鵺が現れたとき、源頼政は鵺を射たけれども、鵺を死に至らしめたのは、頼政に仕えるイノ・ハヤタであった。大声で退治できたものは、46年後には二人がかりでなければ退治できなくなったのである。
今はそれから450年経っている。もし今、鵺が出て私が退治することになったら、大声でも二人がかりでも退治することは叶わないだろう。もはや我が国の武徳は、すっかり衰退してしまったのだと思うと、涙が流れるのだ」
その話題から400年余り経つ現在。日本の武徳は・・・・・・?

平家指南抄

『平家音楽史』には、「平家指南抄」なる文献の引用があります。誰が何時ごろ書いたものなのかは述べられていませんが、いわゆる口伝をまとめたものと思われます。
引用されているのは、望ましくない語り方・環境を述べた11項目です。

  常に嗜むべき事
一 目を閉て語る事。(是は平人の事なり)
一 人をしかる様に語る事。
一 手すさみをして語る事。

目の見える人は譜本を見ながら語る慣わしです。お坊さんは経典を見て読経したり、オーケストラの皆さんが楽譜を見て演奏したりするのと一緒です。平家物語を「語る」ことが第一であり、また、目の見える人は暗譜をしない余裕で座の雰囲気をみて語りなさいという意味もあります。
もともと大声というわけでもないのに、わざと大きな声を出したり、がなり声を出すと、聞くほうも語るほうも疲れます。
左手は琵琶の柱(じ:フレットの部分)がある鶴首を、右手は撥を持って語るわけですが、弾かないときに手遊み(てずさみ)すると、聴衆はその手の動きに気をとられてしまいます。

一 文字聞へぬ様に語る事。
一 調子高く出す事。
一 声ふとくほそく語る事。
一 頭をふり顔しはむ事。

平家物語を「語る」ことが大切ですから、詞(ことば)が聞き取れなければ意味がありません。子音や単語を考えて、きれいな発音を心がけます。大きな声をめざすあまりにダミ声や鼻声にすることは好ましくありません。
自分の声域に合った音高より高い音にすると、高い音域の曲節(きょくせつ:旋律の形式)が聞き苦しくなります。また、自分の声量よりも大きな声を出すのも、聞き苦しくなります。
得意なところを大きな声で、そうでないところを小さな声で語るのも、聞き苦しいものです。最初から最後まで同じ声量で語れるように、バランスを考えなければなりません。
手遊みと一緒で、語るときに旋律と一緒に頭全体が動いたり、あたかも一生懸命語っているかのように顔をしかめたりすると、聴衆はそちらに気をとられてしまいます。体を動かすのも好ましくありません。

一 貴人の御杯の時長平家語る事。
一 席へ語り出て長調子調へる事。
一 語中聴衆咄たばこ遠慮の事。
一 衆人語終らぬ内は杯取合興かましき事。

身分の高い方の前で語るときは(お食事や宴の前になりますので)長時間にわたって語ってはいけません。結婚式や祝賀会などで乾杯の前のスピーチが長いと、皆さんもイライラしますよね?
さあ、語りだしますよ、というときになって、延々と琵琶の調弦をしてはいけません。調弦は事前にすませておくものであり、語る前に簡単に確認するにとどめます。(調弦が狂っていても、手際よく調えます。)
聴衆に対して、「語り」が終わるまでは、おしゃべりやタバコは遠慮して下さいと伝えておきましょう。聴衆のみならず語り手もそちらに気をとられてしまいますし、タバコの煙で声の調子が変わることもあり得るのです。
聴衆も、語り手が語り終えるまでは、お酒や食事などに興じてはいけません。
だいたいこんなところでしょうか。
要は、平家琵琶の語りは(目で読む平家物語ではなく)耳で聴いて読む平家物語なので、聴衆それぞれが自由に解釈をすすめられるよう、語り手は目障りな動きや耳障りな発声を慎み、聴衆も互いに気を遣いましょう、ということです。
ちなみに私は、上記をめざして日々修行中です。師匠の館山宣昭師の語りや、その父である館山甲午師のテープは、肩の力が抜けており、それでいて気とか品とかを感じさせる、指南抄のとおりの語りです。あせらずたゆまず精進精進。

琵琶の種類

詳しくは平家詞曲研究室に記してあります。ここではごく簡単に。
琵琶が日本に伝来したのは奈良時代に遡ると考えられています。
その後、いくつかの種類の琵琶が日本において生まれ、現代まで伝えられています。流派が違うのではなく、成立背景や楽器そのものの構造が違いますので、ジャンルが異なると表現するべきかもしれません。

  • 楽琵琶(楽器内部の空洞が少ないため重い)
    • 楽琵琶(がくびわ):雅楽で用いる琵琶。『陰陽師』で一躍人気者になった源博雅が弾いているのが、これ。
    • 平家琵琶(へいけびわ):平家物語を語るための琵琶。楽器の構造面では楽琵琶と同一。平家物語の詞(ことば)を語ることが優先なので、楽器を弾く場面は極端に少ない。
  • 盲僧琵琶(楽器内部の空洞が大きいため軽い)
    • 盲僧琵琶(もうそうびわ):かまど祓いの読経などのとき、伴奏に用いる琵琶。薩摩盲僧、筑前盲僧、肥後盲僧などがある。
    • 薩摩琵琶(さつまびわ):室町時代以降、薩摩藩の武士が軍記物を語るのに用いた。大きな撥が特徴。勇ましいイメージ。
    • 筑前琵琶(ちくぜんびわ):明治以降、筑前盲僧に薩摩琵琶や三味線の要素を採り入れた琵琶。華やかなイメージ。

この説明だけでは聊か不十分ですが、「なんだか、いろんな種類があるんだな」と思って下されば幸いです。

なお、筑前琵琶については、私のホームページと相互リンクしているBiwa to You 琵琶のホームページにも、はてなDiaryを利用したhttp://d.hatena.ne.jp/biwa2u/がありますので、ぜひご参照ください。